あとあと考えると、あのときのわたしは、どこか思考回路や感覚器官といったものがおかしくなっていた。あの空白のなかでは、人間は、正常な判断ができないのかもしれない。人間とか、そんな話ではなくて、単にわたしが根性のない人間だということであるのかもしれない。わたしにはよく分からない。けれど、彼の言葉から断片的にわかる言葉をつなぎあわせて、穴埋めをして、聞きなおして、噛み砕いてみると、どうやらわたしは、彼に助けられたらしい。
「組織?」
「ああ、組織だ。それが名前だ」
「組織って、名前じゃないじゃん」
「組織のほかに組織的なものはないのだから、組織というだけで、意味は通じる」
「へんなの」
「変ではあるな」
電車のなかで揺られながら、わたしと彼は会話をした。会話。言葉を交わす。それだけなのに。電車のなかにはわたしと彼の、ふたりしかいなくて。いやきっと車掌さんがいるはずだけど、アナウンスは、まだ一度もない。
「それで、あの、男の人は……?」
「男の人?」
「いや、その」
目を泳がせて、記憶の断片を拾い集める。あれは確かに、男の人の……。
「ああ、死体のことか。死んだら男も女も関係ない気がするけどなぁ」
あっさりと彼は言う。わたしが拾いきるまえに。
あれは本当に死体だったんだ。
男の、人の?
死体だったんだ。
「この世界には――つまり、人間の生きる活動範囲には――『表』と、『裏』がある。
たとえるならば世界は、一枚の紙だ。
表には、いろいろと(おはよー)(死ねばいいのに)(大好きだよ)(おやすみ)書き込まれる。表のうえで踊らされる記号たちは、裏があることなど知りもせず、表のなかを奔走しているのだ。
対して裏に書かれるのは、それこそ、裏のことでしかなく、つまり――、表にとってはなにも書かれていないの同じようなもので、そこにあるのはすべて『組織』と呼ばれる。まあ、表に知られていない以上、『呼ばれる』なんてことはありえないのだが。
――組織。
だからそれは、裏に唯一存在する、シミのようなものだ。けれど、このシミもまた、表と相互的に依存していることを認識しなければならない。表そのものは、裏のことをまったく知らないというのに、互いに、表と裏は、なくてはならない存在となっているのだ。表しかない紙や、裏しかない紙など、ないのだから。
組織は裏の役割をすべてこなす。
裏に関わった人間は、決して、表に還ることはできない。なぜならば、表は裏を知らないものだからだ。知ってしまった、というのは、同時に、原罪を突きつけられる」
彼の長い説明に、わたしは聞き漏らすまいと耳を傾け、彼の顔を注視する。
「じゃあ、わたしは」
「ああ、きみは、もう戻ることはできない。この電車は、これから組織の建造物――表としてはただの会社だが――に向かっている。そこで、きみは今のようなセミナーを受けることになるだろう」
「そしたら、どうなるの……?」
「そうだな。基本的に、働いてもらうことになるだろう。きみがとんでもなく使えない奴だったら話は別だが、たいてい、裏の人間として任務を遂行してもらうことになる。任務といえども、多岐に渡るから、ここでは説明しない」
電車に揺れる。揺られていると。
あの死体。
思い出す。
と同時に。
目の前に。
そんな夢。
これは夢、
/ぐちゃりと/音が。した方向を見るまでもなくそこにいるという死体という/隔絶/された死者の魂がまるで呼び声を呼んでいるかのようにすべてが混沌として夢のなかそうだこれは夢のなかなのだいいや違う/。夢とうつつが交じり合ってなにもかも分からなくなってでもすべてが夢だとしてもすべてが現実だとしてもなにもわからないでしょうわからないのでしょうわたしにはわからないわからないわからないわからない。くりかえし。わからない。
「あははは」
と嗤うのは、ショートカットの似合う女の人だった。彼の死体を踏みつけて、高らかに嗤うその姿は、ぽっかり空いた電車の穴からのぞく陽光に、容赦なく照らされていた。
「組織?」
「ああ、組織だ。それが名前だ」
「組織って、名前じゃないじゃん」
「組織のほかに組織的なものはないのだから、組織というだけで、意味は通じる」
「へんなの」
「変ではあるな」
電車のなかで揺られながら、わたしと彼は会話をした。会話。言葉を交わす。それだけなのに。電車のなかにはわたしと彼の、ふたりしかいなくて。いやきっと車掌さんがいるはずだけど、アナウンスは、まだ一度もない。
「それで、あの、男の人は……?」
「男の人?」
「いや、その」
目を泳がせて、記憶の断片を拾い集める。あれは確かに、男の人の……。
「ああ、死体のことか。死んだら男も女も関係ない気がするけどなぁ」
あっさりと彼は言う。わたしが拾いきるまえに。
あれは本当に死体だったんだ。
男の、人の?
死体だったんだ。
「この世界には――つまり、人間の生きる活動範囲には――『表』と、『裏』がある。
たとえるならば世界は、一枚の紙だ。
表には、いろいろと(おはよー)(死ねばいいのに)(大好きだよ)(おやすみ)書き込まれる。表のうえで踊らされる記号たちは、裏があることなど知りもせず、表のなかを奔走しているのだ。
対して裏に書かれるのは、それこそ、裏のことでしかなく、つまり――、表にとってはなにも書かれていないの同じようなもので、そこにあるのはすべて『組織』と呼ばれる。まあ、表に知られていない以上、『呼ばれる』なんてことはありえないのだが。
――組織。
だからそれは、裏に唯一存在する、シミのようなものだ。けれど、このシミもまた、表と相互的に依存していることを認識しなければならない。表そのものは、裏のことをまったく知らないというのに、互いに、表と裏は、なくてはならない存在となっているのだ。表しかない紙や、裏しかない紙など、ないのだから。
組織は裏の役割をすべてこなす。
裏に関わった人間は、決して、表に還ることはできない。なぜならば、表は裏を知らないものだからだ。知ってしまった、というのは、同時に、原罪を突きつけられる」
彼の長い説明に、わたしは聞き漏らすまいと耳を傾け、彼の顔を注視する。
「じゃあ、わたしは」
「ああ、きみは、もう戻ることはできない。この電車は、これから組織の建造物――表としてはただの会社だが――に向かっている。そこで、きみは今のようなセミナーを受けることになるだろう」
「そしたら、どうなるの……?」
「そうだな。基本的に、働いてもらうことになるだろう。きみがとんでもなく使えない奴だったら話は別だが、たいてい、裏の人間として任務を遂行してもらうことになる。任務といえども、多岐に渡るから、ここでは説明しない」
電車に揺れる。揺られていると。
あの死体。
思い出す。
と同時に。
目の前に。
そんな夢。
これは夢、
/ぐちゃりと/音が。した方向を見るまでもなくそこにいるという死体という/隔絶/された死者の魂がまるで呼び声を呼んでいるかのようにすべてが混沌として夢のなかそうだこれは夢のなかなのだいいや違う/。夢とうつつが交じり合ってなにもかも分からなくなってでもすべてが夢だとしてもすべてが現実だとしてもなにもわからないでしょうわからないのでしょうわたしにはわからないわからないわからないわからない。くりかえし。わからない。
「あははは」
と嗤うのは、ショートカットの似合う女の人だった。彼の死体を踏みつけて、高らかに嗤うその姿は、ぽっかり空いた電車の穴からのぞく陽光に、容赦なく照らされていた。