わたし物語(完結)

作者:小伏史央 本作はライトなラノベコンテスト応募作品です。本文の無断転載を固く禁じます。

2013年11月

 あとあと考えると、あのときのわたしは、どこか思考回路や感覚器官といったものがおかしくなっていた。あの空白のなかでは、人間は、正常な判断ができないのかもしれない。人間とか、そんな話ではなくて、単にわたしが根性のない人間だということであるのかもしれない。わたしにはよく分からない。けれど、彼の言葉から断片的にわかる言葉をつなぎあわせて、穴埋めをして、聞きなおして、噛み砕いてみると、どうやらわたしは、彼に助けられたらしい。
「組織?」
「ああ、組織だ。それが名前だ」
「組織って、名前じゃないじゃん」
「組織のほかに組織的なものはないのだから、組織というだけで、意味は通じる」
「へんなの」
「変ではあるな」
 電車のなかで揺られながら、わたしと彼は会話をした。会話。言葉を交わす。それだけなのに。電車のなかにはわたしと彼の、ふたりしかいなくて。いやきっと車掌さんがいるはずだけど、アナウンスは、まだ一度もない。
「それで、あの、男の人は……?」
「男の人?」
「いや、その」
 目を泳がせて、記憶の断片を拾い集める。あれは確かに、男の人の……。
「ああ、死体のことか。死んだら男も女も関係ない気がするけどなぁ」
 あっさりと彼は言う。わたしが拾いきるまえに。
 あれは本当に死体だったんだ。
 男の、人の?
 死体だったんだ。

「この世界には――つまり、人間の生きる活動範囲には――『表』と、『裏』がある。
 たとえるならば世界は、一枚の紙だ。
 表には、いろいろと(おはよー)(死ねばいいのに)(大好きだよ)(おやすみ)書き込まれる。表のうえで踊らされる記号たちは、裏があることなど知りもせず、表のなかを奔走しているのだ。
 対して裏に書かれるのは、それこそ、裏のことでしかなく、つまり――、表にとってはなにも書かれていないの同じようなもので、そこにあるのはすべて『組織』と呼ばれる。まあ、表に知られていない以上、『呼ばれる』なんてことはありえないのだが。
 ――組織。
 だからそれは、裏に唯一存在する、シミのようなものだ。けれど、このシミもまた、表と相互的に依存していることを認識しなければならない。表そのものは、裏のことをまったく知らないというのに、互いに、表と裏は、なくてはならない存在となっているのだ。表しかない紙や、裏しかない紙など、ないのだから。
 組織は裏の役割をすべてこなす。
 裏に関わった人間は、決して、表に還ることはできない。なぜならば、表は裏を知らないものだからだ。知ってしまった、というのは、同時に、原罪を突きつけられる」

 彼の長い説明に、わたしは聞き漏らすまいと耳を傾け、彼の顔を注視する。
「じゃあ、わたしは」
「ああ、きみは、もう戻ることはできない。この電車は、これから組織の建造物――表としてはただの会社だが――に向かっている。そこで、きみは今のようなセミナーを受けることになるだろう」
「そしたら、どうなるの……?」
「そうだな。基本的に、働いてもらうことになるだろう。きみがとんでもなく使えない奴だったら話は別だが、たいてい、裏の人間として任務を遂行してもらうことになる。任務といえども、多岐に渡るから、ここでは説明しない」

 電車に揺れる。揺られていると。
 あの死体。
 思い出す。
 と同時に。
 目の前に。
 そんな夢。
 これは夢、
/ぐちゃりと/音が。した方向を見るまでもなくそこにいるという死体という/隔絶/された死者の魂がまるで呼び声を呼んでいるかのようにすべてが混沌として夢のなかそうだこれは夢のなかなのだいいや違う/。夢とうつつが交じり合ってなにもかも分からなくなってでもすべてが夢だとしてもすべてが現実だとしてもなにもわからないでしょうわからないのでしょうわたしにはわからないわからないわからないわからない。くりかえし。わからない。
「あははは」
 と嗤うのは、ショートカットの似合う女の人だった。彼の死体を踏みつけて、高らかに嗤うその姿は、ぽっかり空いた電車の穴からのぞく陽光に、容赦なく照らされていた。

 まっしろで、まっさらな。その空間をなんと表現すればいいのか、それ以前にここが空間であるのか、なにもかもわからないところだった。もしわたしが漫画のキャラクタであるとしたら、コマからはみでて、ふちの空白のなかに放り込まれてしまったような。わたしが小説のキャラクタであるのなら、文字のない白紙のうえを、踊らされている、無色の登場人物のような。ああメタフィクション。ついいつもの癖で、自分を俯瞰するように思考してしまったけれど、その思考がこの空間に反映されるわけでもなく、ただただまっしろで、まっさらだった。
 わたしは足を進める。漫画であっても小説であっても、紙の端っこにくれば壁があるはず。わたしは手を突き出して歩いた。なにも見えていないのに目はまるで正常に機能していた。純白のうつろ。まるで霧のなかを歩いているみたい。けれど霧のようなひんやりとした感じもない。ただ、無感動。わたしの思考があるのみだ。
 ふと不安になって、わたしは自分の体を抱きしめる。腕を交差させて掴んだ肩は、たしかにそこに存在していた。少なくともわたしは実感することができている。この空間がいかに虚無の回廊であっても、わたしは、わたし自身は消えてはいないらしい。そう思うと少し安心した。でも最初から安心しているような気もする。わたしは確かにここにいるのに、なんだかだんだん内面から曖昧になってゆく。
 わたしは歩き続けた。きっと果てがあると信じて。わたしは歩いた。この曖昧で不確かな、だけれど確実な芯をもって空白である場所を。地面がどこだかもわからないのに、足を踏みつけると確かに踏みつける感触があり、地面があるのだと実感した。足を進めて歩く。いつまで経っても壁は来ない。
 ふと思いついて、わたしは天上を仰いだ。どこまでも白い無が続いているように見える。わたしは手をのばした。上空に陰がさした。
「あ」
 一瞬だけ流れた陰が、波紋を作った。空白が揺れる。水面が、上空に浮かんでいるみたいだ。わたしはもう一度手でなにもみえないなにかを撫でた。今度はなにも起こらなかった。
 見間違いだったのだろうか。それにしてははっきりと見えた。目を凝らせば、波紋が遠くのほうで連鎖しつづけているのが見えた。わたしは波紋を追いかけて走った。走る。走る。なんだか久しぶりに走ったような気がして、楽しかった。
 波紋がうまれ、波紋がうまれ。わたしが地面を蹴るごとに空白は揺れた。音を立てずにぐねりとうねる。けれど陰は見えなかった。ただまっしろで、まっさらな、その空白が揺れているだけだ。ゆらゆら揺れているだけだ。
 歪む。そうだ。歪んでいるという表現がまるで腑に落ちた。陰が素早い動きでわたしとすれ違った。振り返る。陰は見えなくなっていた。うしろになにか気配を感じる。振り返る。まっしろな空間。
「だれかいるの」
 声を出す。声に反応して空間がぐにゃりと歪んだ。崩れるように空白が倒れる。視認できないはずの無がわたしにのしかかり、わたしはその重さを実感することもなく無につぶされた。体がこわれることはないけれど圧迫したような窮屈な空気がわたしを支配する。曖昧な、正確な、歪んだ空間の。わたしはひざまずいて地面を叩いた。大きく波打つ空白が、わたしの頬を撫で付けて崩壊した。
「だれか、だれか」
 声を発するごとに静寂だった空間は躍動的に踊った。ふるえる。空白。まっさらな、まっしろな。わたしは膝をついたまま前へ向かった。壁を探そう。壁を。きっとここにも果てがあるんだ。宇宙にはない果て。ここは宇宙ではない。向こうに。向こうに終わりがきっと。
 陰が、目の前にいた。
 それはひとのかたちをしていた。
 わたしは手をのばす。陰はわたしの手を避けることはしなかった。手を、つかむ。つかめた。つかむ。触ることができたのにまるで触ったという達成感がなかった。触る。という五感のひとつが曖昧に取り込まれる。麻痺はしていないんだ。触れるのに。わたしはもう片方の手ものばして、陰を、つつみこむように。
 陰はいつの間にか指人形のように小さくなっていた。
 崩れて、崩れて。音のない破滅。カウントのないカウントダウン。難しい話。わたしはつつみこんだ陰を胸にかかえた。陰なのにまるで輝いている、空白のなかで、陰が光っている。
「ああ、あなたはわたしなんだ」
 わたしは気づいていない。ということにも、気付いていない。
「いいや、それは違う」
 陰が、言った。
 わたしの胸が肥大する。呆気にとられる余裕もなく、わたしの体は破裂した。肉体が飛び散る。眼球のしっぽがアーチをえがく。わたしの目は自身が上がってから落ちるその光景を主観的に眺めている。
「ぼくはきみではない。きみはきみでしかないのだから」
 色が、空白のなかになだれ込んできた。気付けばわたしの体はここにあって、飛び散った肉片はどこにもなかった。それどころではなくて、空白は、わからなくなって、そこは無人の電車のなかだった。
「きみは、関わってしまったね。『裏』の世界に」
 焦点がさだまると、向かいの座席に男の人がいた。二十歳くらいの。黒い服をまとっている。かっこよかった。
「おうじ、さま」
 わたしは、つい、口に出す。
「わたしの、王子様?」
 彼は、わたしの言葉に、ただ苦笑するだけだった。
 電車が動き出す。


 電車が揺れる。がたごとと。
 体の奥にリズムが響く。がたごとがたごと、がっとんとん。
 朝の景色はいそがしく、電車に合わせて移りゆく。
 いつもの朝よ、ここまでは。けれどもここから。ここからは――。
 学校の最寄り駅に着くまであと数駅ほどのところで、わたしは異変に気付いた。無情に流れてゆく景色から目を逸らして、離して、目をつむる。心地良いはずの振動音は、このときに限っては体の奥でわだかまり、どぶ川のどぶのようになっていた。ぐるぐると暗闇が廻る。無慈悲な、異変。
 ――腹いたい……。
 やばいやばいこれはやばい。眉間にちからを込める。冷や汗が出ているのが分かった。突如として訪れた災厄。悪夢。いや夢ではない。電車が揺れる。さわがしいひとたち。うるさいまじ黙れ。だめだだめだ思考力のてーか。余裕が。どこへ。行かないで。こりゃだめだ。不肖わたし、私立挽磨高等学校一年生、ただいま滅茶苦茶腹痛大ピンチ。なう。
 電車が止まると、たまらず途中下車した。小走りで階段に向かい、トイレに駆け込む。もうすぐ。もうすぐ。頭のなかがシナプスが脳細胞がたったひとつの目的に向かって一致団結していた。がんばれ。がんばれわたし……!
 ……。…………。
 間に合った。セーフ。ギリギリセーフ。危ないところだった。しかしわたしは、その苦難を、突然の異変を、見事打ち勝つことができた。よっしゃ。
 ホッと息をついて、手を洗う。若干、顔から血色が抜け落ちたような気がする。気のせいだろうか。ともあれよく耐えたものだと思う。高校生活が始まってから、はや二ヶ月が経つが、こんな事態はいままで経験したことがなかった。
 つーか、一日の物語のはじまりが、腹痛だなんて……。あ、いや、これはわたしの癖だ。悪い癖なのかどうか、よく分からないけれど、良い癖ではない。メタフィクション。たまに意識してしまう、俯瞰される自分。もしかしてわたしの体は、思考は、行動は、なにものかの作ったものなのではないかと考えてしまう。いつからかそんな癖がついていた。
 いつからだろう。
 いつでもいいや。
 トイレを出たら。
 すべてがとまる。口をおさえる。視界がかすむ。喧騒がきえて。
 目の前に広がる水たまり。赤い水たまり。その中心に島さえなければ、わたしは、それを単なる赤い水たまりとしか認識しなかっただろう。けれど。そこには確かに島が横たわっていた。ふちどるように。こわれるように。こわれた体。血が、でてる。
 女子高生は見た。とか安易なタイトルロゴが飛び出たなら、まだ救いはあったかもしれない。口をおさえたまま、真っ白になった頭のなかで、考えずに、考える。考えるまでもなく眼前の男は息をせずに目を見開いて電灯に照らされていて、それだけなら良かったんだけど、ああいつになったら駅員さんがやってくるのだろうとか考えていられたならそれでよかったんだけど。
 わたしは関わってしまった。そう自覚したその時点で、ああメタフィクション、わたしはそこにはいなかった。
 気付けばそこはまっさらな。
 空間、ゆがんだ、亜空間。
 死体もトイレもどこかへ消えて。
 空間、ゆがんだ、夢のなか。
 さあさあ皆様お立会い。ぴーひゃらりーと笛が鳴る。
「裏」に向かわばむなしき夢よ。
 わたし物語、はじまり、はじまり。

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