わたし物語(完結)

作者:小伏史央 本作はライトなラノベコンテスト応募作品です。本文の無断転載を固く禁じます。

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 女は笑ったままその笑顔を崩さないでまるで無表情のような笑顔をしつづけてわたしはどんな顔をしていただろう。不思議な感覚がわたしを包んだのでもう一度その女が踏みつけているものを見つめるとそれはさっきまでわたしと会話をしていた男の死体、ではなくて、そうだ死体なのだから男とか女とか関係ないじゃないそう言ったのは確かにこの死体だだからなにも心配することはないんだね。
 展開が早すぎてついていけない、とメタフィクション的に思っていると、女は無表情の笑顔のまま、ついてこい。と言った。
「あなたはだあれ」
「誰でもいい」
 死体を一日のうちにふたつも見ちゃった。
 じわじわと感覚が飽和する。
 あー死んだんだきったねーなー。みたいな。
 なんかわかんないけど。あふれでてくる想い。みたいな。
 きみがすきなんだーらららーみたいな。
 みたいな。
 断続した感想をいだいている間に、わたしの脚は動いていて、女のうしろにぴったりとくっついていて、わたしの意思というものはあまり肉体と関連性のないものなのだとこのときに知った。ような気がした。
 女がつれてきたところは暗いビルのようだった。暗い、というと語弊がありそうだけど、これはブンガクテキな表現であって、実際のところは埃ひとつ落ちていない清潔な、真っ白に塗りたくられた近未来ちっくの白紙のうえを踊っているような建物だった。でも飴が降っていた。雨ではなく飴。甘い飴が降るー。らららー。
「あんたは、あれだな」
 ふいに、女の人が着物のしわをなおす。違う。書き間違えた。着物のしわをなおしたのではなくて、女の人は、口を開いて発言したのだ。
「あんたは、いままで私が見たことのある人間のなかで、一番、なにも考えていない」
 あははー。よく言われません。なにそれ。ばかにしてるの。ばかにされてるの。怒っちゃうなぁ。飴が降る。
 ああ、あともうひとつ間違えた。女の人が来ているのは着物ではなくて動きやすい伸縮性の良い肌触りのよい。
 はあ。
 問題! じゃじゃん。第一問。疲れると出てくるものはなーんだ。
 ピンポン。はい。そこのひと。はいはい。答えは溜息です。
 正解! でもはずれです。なぜならば飴が降っているからです。
 甘い飴。
 ビルのなかでは殺人事件が繰り広げられていた。そこにさきほどの死体がいた。
「ああ、また会ったね」
 死体、はトイレで見た死体ではなくて電車のなかで見た死体のことだ。彼は黒い服を着ていた。たぶん喪服だろう。自分の葬式に出るためにこうして黒い服を着て電車に乗っていたらしい。なるほどだからさっき死んでいたのか。
 わたしは走った。すると女も走った。でも彼は死後硬直が進んでいたようで、走ることができなかった。いいザマだと思った。わたしは走った。
 というのは嘘だった。なぜならば走るのは疲れるからだ。はあ。疲れると溜息がでて地球温暖化を支援してしまう。牛じゃないよ。でもわたしは牛になることもできた。もぉー。ほらね。わたしは牛だ。高く売れるよ。
 わたしは牛だからもぉーと鳴いた。すると飴が降ってきた。わたしはそれを食べようと思った。しかし胃がよっつあるわたしにとって、飴を舐めることは容易ではなかった。なぜか。そんな原因と結果のような成り立ちは面倒なので省くことにした。わたしは牛を放棄することにした。たった数行の間だけの牛生活だったが名残惜しくないといえば嘘にはならなかった。わたしは人間に戻った。でももともと、わたしは牛にはなっていなかったのかもしれない。そう思うと溜息が出て、それと同時にあくびが出た。げっぷも出たかもしれないけれど汚いからしなかったことにした。楽しかった。
 ざあーと大きな音を立てて飴の量が増えたので、着物を着ていない女はわたしの肩を掴んだ。
「逃げるつもりじゃあ、なかったようだが」
 と女は訝しんだ。なにが悲しいのかわからなかった。わたしは走るのをとっくの昔にやめていたし、たとえ走っていたとしても彼女のほうが走るのは速いはずなのに彼女はわたしを追い抜くことがなかったのはでは第二問。

 あとあと考えると、あのときのわたしは、どこか思考回路や感覚器官といったものがおかしくなっていた。あの空白のなかでは、人間は、正常な判断ができないのかもしれない。人間とか、そんな話ではなくて、単にわたしが根性のない人間だということであるのかもしれない。わたしにはよく分からない。けれど、彼の言葉から断片的にわかる言葉をつなぎあわせて、穴埋めをして、聞きなおして、噛み砕いてみると、どうやらわたしは、彼に助けられたらしい。
「組織?」
「ああ、組織だ。それが名前だ」
「組織って、名前じゃないじゃん」
「組織のほかに組織的なものはないのだから、組織というだけで、意味は通じる」
「へんなの」
「変ではあるな」
 電車のなかで揺られながら、わたしと彼は会話をした。会話。言葉を交わす。それだけなのに。電車のなかにはわたしと彼の、ふたりしかいなくて。いやきっと車掌さんがいるはずだけど、アナウンスは、まだ一度もない。
「それで、あの、男の人は……?」
「男の人?」
「いや、その」
 目を泳がせて、記憶の断片を拾い集める。あれは確かに、男の人の……。
「ああ、死体のことか。死んだら男も女も関係ない気がするけどなぁ」
 あっさりと彼は言う。わたしが拾いきるまえに。
 あれは本当に死体だったんだ。
 男の、人の?
 死体だったんだ。

「この世界には――つまり、人間の生きる活動範囲には――『表』と、『裏』がある。
 たとえるならば世界は、一枚の紙だ。
 表には、いろいろと(おはよー)(死ねばいいのに)(大好きだよ)(おやすみ)書き込まれる。表のうえで踊らされる記号たちは、裏があることなど知りもせず、表のなかを奔走しているのだ。
 対して裏に書かれるのは、それこそ、裏のことでしかなく、つまり――、表にとってはなにも書かれていないの同じようなもので、そこにあるのはすべて『組織』と呼ばれる。まあ、表に知られていない以上、『呼ばれる』なんてことはありえないのだが。
 ――組織。
 だからそれは、裏に唯一存在する、シミのようなものだ。けれど、このシミもまた、表と相互的に依存していることを認識しなければならない。表そのものは、裏のことをまったく知らないというのに、互いに、表と裏は、なくてはならない存在となっているのだ。表しかない紙や、裏しかない紙など、ないのだから。
 組織は裏の役割をすべてこなす。
 裏に関わった人間は、決して、表に還ることはできない。なぜならば、表は裏を知らないものだからだ。知ってしまった、というのは、同時に、原罪を突きつけられる」

 彼の長い説明に、わたしは聞き漏らすまいと耳を傾け、彼の顔を注視する。
「じゃあ、わたしは」
「ああ、きみは、もう戻ることはできない。この電車は、これから組織の建造物――表としてはただの会社だが――に向かっている。そこで、きみは今のようなセミナーを受けることになるだろう」
「そしたら、どうなるの……?」
「そうだな。基本的に、働いてもらうことになるだろう。きみがとんでもなく使えない奴だったら話は別だが、たいてい、裏の人間として任務を遂行してもらうことになる。任務といえども、多岐に渡るから、ここでは説明しない」

 電車に揺れる。揺られていると。
 あの死体。
 思い出す。
 と同時に。
 目の前に。
 そんな夢。
 これは夢、
/ぐちゃりと/音が。した方向を見るまでもなくそこにいるという死体という/隔絶/された死者の魂がまるで呼び声を呼んでいるかのようにすべてが混沌として夢のなかそうだこれは夢のなかなのだいいや違う/。夢とうつつが交じり合ってなにもかも分からなくなってでもすべてが夢だとしてもすべてが現実だとしてもなにもわからないでしょうわからないのでしょうわたしにはわからないわからないわからないわからない。くりかえし。わからない。
「あははは」
 と嗤うのは、ショートカットの似合う女の人だった。彼の死体を踏みつけて、高らかに嗤うその姿は、ぽっかり空いた電車の穴からのぞく陽光に、容赦なく照らされていた。

 まっしろで、まっさらな。その空間をなんと表現すればいいのか、それ以前にここが空間であるのか、なにもかもわからないところだった。もしわたしが漫画のキャラクタであるとしたら、コマからはみでて、ふちの空白のなかに放り込まれてしまったような。わたしが小説のキャラクタであるのなら、文字のない白紙のうえを、踊らされている、無色の登場人物のような。ああメタフィクション。ついいつもの癖で、自分を俯瞰するように思考してしまったけれど、その思考がこの空間に反映されるわけでもなく、ただただまっしろで、まっさらだった。
 わたしは足を進める。漫画であっても小説であっても、紙の端っこにくれば壁があるはず。わたしは手を突き出して歩いた。なにも見えていないのに目はまるで正常に機能していた。純白のうつろ。まるで霧のなかを歩いているみたい。けれど霧のようなひんやりとした感じもない。ただ、無感動。わたしの思考があるのみだ。
 ふと不安になって、わたしは自分の体を抱きしめる。腕を交差させて掴んだ肩は、たしかにそこに存在していた。少なくともわたしは実感することができている。この空間がいかに虚無の回廊であっても、わたしは、わたし自身は消えてはいないらしい。そう思うと少し安心した。でも最初から安心しているような気もする。わたしは確かにここにいるのに、なんだかだんだん内面から曖昧になってゆく。
 わたしは歩き続けた。きっと果てがあると信じて。わたしは歩いた。この曖昧で不確かな、だけれど確実な芯をもって空白である場所を。地面がどこだかもわからないのに、足を踏みつけると確かに踏みつける感触があり、地面があるのだと実感した。足を進めて歩く。いつまで経っても壁は来ない。
 ふと思いついて、わたしは天上を仰いだ。どこまでも白い無が続いているように見える。わたしは手をのばした。上空に陰がさした。
「あ」
 一瞬だけ流れた陰が、波紋を作った。空白が揺れる。水面が、上空に浮かんでいるみたいだ。わたしはもう一度手でなにもみえないなにかを撫でた。今度はなにも起こらなかった。
 見間違いだったのだろうか。それにしてははっきりと見えた。目を凝らせば、波紋が遠くのほうで連鎖しつづけているのが見えた。わたしは波紋を追いかけて走った。走る。走る。なんだか久しぶりに走ったような気がして、楽しかった。
 波紋がうまれ、波紋がうまれ。わたしが地面を蹴るごとに空白は揺れた。音を立てずにぐねりとうねる。けれど陰は見えなかった。ただまっしろで、まっさらな、その空白が揺れているだけだ。ゆらゆら揺れているだけだ。
 歪む。そうだ。歪んでいるという表現がまるで腑に落ちた。陰が素早い動きでわたしとすれ違った。振り返る。陰は見えなくなっていた。うしろになにか気配を感じる。振り返る。まっしろな空間。
「だれかいるの」
 声を出す。声に反応して空間がぐにゃりと歪んだ。崩れるように空白が倒れる。視認できないはずの無がわたしにのしかかり、わたしはその重さを実感することもなく無につぶされた。体がこわれることはないけれど圧迫したような窮屈な空気がわたしを支配する。曖昧な、正確な、歪んだ空間の。わたしはひざまずいて地面を叩いた。大きく波打つ空白が、わたしの頬を撫で付けて崩壊した。
「だれか、だれか」
 声を発するごとに静寂だった空間は躍動的に踊った。ふるえる。空白。まっさらな、まっしろな。わたしは膝をついたまま前へ向かった。壁を探そう。壁を。きっとここにも果てがあるんだ。宇宙にはない果て。ここは宇宙ではない。向こうに。向こうに終わりがきっと。
 陰が、目の前にいた。
 それはひとのかたちをしていた。
 わたしは手をのばす。陰はわたしの手を避けることはしなかった。手を、つかむ。つかめた。つかむ。触ることができたのにまるで触ったという達成感がなかった。触る。という五感のひとつが曖昧に取り込まれる。麻痺はしていないんだ。触れるのに。わたしはもう片方の手ものばして、陰を、つつみこむように。
 陰はいつの間にか指人形のように小さくなっていた。
 崩れて、崩れて。音のない破滅。カウントのないカウントダウン。難しい話。わたしはつつみこんだ陰を胸にかかえた。陰なのにまるで輝いている、空白のなかで、陰が光っている。
「ああ、あなたはわたしなんだ」
 わたしは気づいていない。ということにも、気付いていない。
「いいや、それは違う」
 陰が、言った。
 わたしの胸が肥大する。呆気にとられる余裕もなく、わたしの体は破裂した。肉体が飛び散る。眼球のしっぽがアーチをえがく。わたしの目は自身が上がってから落ちるその光景を主観的に眺めている。
「ぼくはきみではない。きみはきみでしかないのだから」
 色が、空白のなかになだれ込んできた。気付けばわたしの体はここにあって、飛び散った肉片はどこにもなかった。それどころではなくて、空白は、わからなくなって、そこは無人の電車のなかだった。
「きみは、関わってしまったね。『裏』の世界に」
 焦点がさだまると、向かいの座席に男の人がいた。二十歳くらいの。黒い服をまとっている。かっこよかった。
「おうじ、さま」
 わたしは、つい、口に出す。
「わたしの、王子様?」
 彼は、わたしの言葉に、ただ苦笑するだけだった。
 電車が動き出す。

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